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「離島留学と私」(沖縄県立久米島高校/松本ロメル)

はじめに

先日、三年間続いた離島留学を終了しました。

入学した頃、卒業するのはずっと先だと思っていましたが、三年間というのはあっという間に過ぎてしまうものです。今、三年間何があったかな、と思い出そうとしても色々あり過ぎて忘れていることが多いです。ですが、この久米島での三年間の学びは、しっかり僕の血や骨に染みついています。三年間で僕が学んだこと、僕の身体に聴きながら、丁寧に書き下ろしたいと思います。

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(久米島、奥武島にて)

ここではない、どこかへ

久米島に最初に行った時の衝撃は、なんと言っても島を包み込むような大自然でした。僕が久米島高校に入学しようと決めたきっかけも、高校を見学した時にどこまでも広がる海を見て、「ここに住めるってどんだけ幸せなんだろう。」と思ったことでした。

僕は、東京生まれ東京育ちだったので、自然のある地方に憧れていました。中学校の頃は三年間、ずっとバスケットボールをやっていました。初心者から始めたにもかかわらず、たまたま強豪校に入ってしまった僕は、毎日のようにバスケット漬けになり、気づいたらバスケ馬鹿になっていました。中学三年生になって当然の様に、バスケットを中心に、高校も決めようとしてました。けれども、何か、どこかで引っかかる。。。

確かに、高校生の部活などを見て、面白そうと思うものはありました。でも、なんか違う。。。

その違和感というのは、今になって思えば「東京」に対する違和感だったんだと思います。僕の身体が都会の窮屈さに悲鳴をあげそうになっていた。それで久米島に惹き寄せられた。

そうやって考えていくうちに、久米島高校に入学することを決めました。


地域の人たちの愛情

離島留学をしていた中でありがたかったのは、島の方々の優しさでした。

僕の場合、特に里親さんにとても感謝しています。

僕は、中学でずっとやっていたバスケットボールを高校になって辞め、自分は何をしたら良いんだろうととても迷っていました。自分にとって生活の一部だったバスケがなくなると本当に困りました。入学した当時は、バスケットに力を入れると意気込んでいた僕だったのでそのギャップにとても苦しみました。

そんな時、里親さんが中学生のバスケのコーチや、他にも家に呼んでもらって島の方々との交流の機会なども作っていただきました。僕は里親さんを通して、地域の方とたくさん関わりました。そうしていくうちに、バスケをやっていなくても十分自分は楽しめるということがわかりました。そうやって、どんどん外に出ていくうちに「高校で学ぶ」というより、「島で学ぶ」というマインドに変わっていきました。このようなマインドになると学校で何かをしなくても学外、島でたくさん学べば良いんだ、そう思うようになりました。

ありのままの僕を受け入れてくれた島の人たちに感謝しています。


都会と自然

僕の二歳上の先輩に、自然大好きなKくんという先輩がいました。僕は、かなり早い段階でKくんと意気投合し、一緒に海によく行きました。Kくんは、自然の話をする時、目をキラキラ輝かせます。よく、Kくんは星の写真も撮っていました。

今でもよく覚えていますが週末のある日の夜に、Kくんと自然や、世界や、社会について語ったことがありました。二人とも喋りまくりで、気づけば朝の5時になってました。面白かったのが、お互いに反論を言いまくってたこと。ある部分では意見が一致するが、話が深くなるとだんだん「それはそうだけど、でもさ」と言う様に交互に反論が続きました。この時間がめちゃくちゃ楽しかった。永遠に反論しても別に傷ついたりしないのです。なぜならお互いに人格否定じゃないとわかっているから。本気でぶつけ合うと、もっと関係が濃くなります。こういった経験ができたのは、離島留学行ってほんとうに良かったと思いました。寮で同じところに住むからこそ、永遠と話し続けられる。そうやって、対話を重ねることで浅いところでの繋がりではなく、深いところでの人間関係を作ることができると思います。そういった深い人間関係があると、心の拠り所にもなります。

Kくんとの出会いもあり、僕はますます久米島の自然にのめり込んでいきます。

やはり人間にとって自然はとてつもなく大切なんだと実感しました。綺麗な海を見たり、夜空に広がる星を見て、本当にそれだけで幸せな気分になれます。こんなに美しい景色が見られるだけでも生きていて良かった、心の底から思いました。

僕も相当な自然大好き人間になっていきました。それと比例して、都会、特に東京に対するマイナスな感情が多くなっていきました。「あそこにはもう住めない」そうやってよく言ってました。その様な都会嫌いは二年半くらい続きます。しかし、だんだん帰省するたびに都会も受け入れる様になっていきました。

僕が、都会を受け入れる様になったのは、中学校の頃の同級生の影響が大きいです。僕の仲の良い地元友達には、苦労している人が多いです。スポーツ推薦で高校に行ったはいいが、自分のやりたかったことが分からなくなり、退学してフリーターをしながら塾に通い、高校に入り直した人。家庭環境が複雑で、高校に行かずに働き、一人暮らしをしている人。そういった友達たちを見て都会でもこうやって頑張っている人がいる、そういった人たちがいると思うと、都会からもエネルギーを感じるようになりました。

自然から感じられる壮大なエネルギーと同じように、都会には都会のエネルギーがある。三年目にしてそう思うことができました。

離島という新たな自分のフィールドを持ったことで、世界の捉え方がかなり広がりました。美しく大きな自然を持つ久米島と、人間が作り上げたものだらけの東京が同じ世界に存在している。だんだんと、二つともつながっていると感じられるようになるんです。それはなんだか不思議な感覚で、自分の身体で地球の大きさを捉えるというか、なんというか、そんな感覚です。

この気づきというか、学びは、僕という人間を形成するのにとても重要な学びだったと思ってます。世界というのは、二元論じゃない、都会も自然もどっちも受け入れることはできる。矛盾は掛け持ちできる。そういったことを思えるようになりました。

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(Kくんと星を撮りにキャンプに行った時、久米島、鳥の口にて)

沖縄で学んだアイデンティティ

僕は高校三年間を通して、様々なことを学びました。

その中で、沖縄だからこそできた学びがあります。

沖縄は太平洋戦争で唯一、地上戦があった島です。高校などでも平和学習を聞いたりしましたが、やはりこの戦争の傷は沖縄にとってかなり大きなものだと思います。沖縄は、琉球王国から日本になり、戦争で負け、アメリカになり、また返還されて、日本になりと、壮絶な歴史を持っています。

僕は二年生の冬、「辺野古埋め立てについての県民投票」が行われようとしている時期に、実際に辺野古に行ってみました。「テレビやネットでは情報がありすぎる。よくわかんないから、直接行ってしまえ!」、そう思って連休を使って向かいました。

そこで出会ったのは、沖縄が平和な島になって欲しいと思い、それぞれのやり方で活動している20代の方々でした。僕は、その人たちと仲良くなり、いろんなことを教えてもらいました。彼らが言っていた言葉で感激を受けたのが、「賛成、反対、ではなくもう一つの答え」というものでした。基地に賛成の人、反対の人、どちらも根底には「沖縄のために」という願いがあるはず。ならば、もう一つの選択肢、オルタナティブなものがあるはずだ。

僕と近い世代の人にこんなにかっこいい人たちがいるんだ、そう思いました。自分達が育った土地の人たちが幸せになるには何ができるか、そうやって真剣になっている姿が、ひしひしと伝わりました。この人たちは「沖縄」と「自分」が一致している。沖縄というアイデンティティというものが彼らにはしっかりあったのです。

僕は、いわゆる混血です。母が外国の出身ですが、僕は自分のルーツというものをちゃんと考えようとしたことが少なかったように思います。しかし辺野古で出会った彼らは、自分立ちのルーツに対して真剣に向き合っていました。首里城の火災のときも、やはり沖縄の人達の「沖縄」に対する思いがとても伝わりました。首里城が燃えて、泣きながらインタビューに答える高校生を見て、悲しみに共感するのと同時に、大切にできるものがある素晴らしさを感じました。

僕は辺野古の兄さんの一人と、アイデンティティって何?という話をしたことがあります。彼が言っていたのは、「馬鹿にされてムカつくもの、全部アイデンティティだよね」ということでした。そうような話をしていくうちに、自分もルーツを大事にしようと思うようになりました。

これだけはゆづれない、馬鹿にされたくない、そういったものは誰しも持っていると思います。それが他者に当てられたとき、つまり他者の幸せが自分の幸せに感じられるとき、それは今後生きていく上での自分の役割を見つけることにつながるのではないかと感じます。そのようなものを、模索していきたいです。

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(辺野古の基地、少し丘になっているところから工事の様子を撮った)

深い部分で繋がれる友人がいること

寮生活をやっていく中で、よく夜遅くまで寮生と話すことがありました。時には自分の深い部分まで共有し合い、本当に濃い対話を重ねました。

今までの自分の人生、どんなことがあったのか。自分の生い立ちから、家族の関係まで。このようなことを話していくうちに、互いに確かな信頼が生まれます。そういった信頼から成り立つ関係は、ただの友達ではなく、一緒にこの社会、世界を生き抜いていく仲間のように感じます。思えば、同じ年代に生まれ、同じ寮に住み、同じ学校に通うというのは、奇跡のようなもの。

僕の心の拠り所はかなりたくさんあります。一つは、東京の家族。他には、地元の友達、そして久米島の友達、里親さん、そして辺野古の兄さんたち。

生まれ育った場所を離れ、新たなコミュニティに飛び込むことで自分の居場所は増えていきます。これはとても大切なことだと思います。自分の居場所がたくさんあると、なんだか生き抜く自信につながるんです。これは、全く大袈裟な話しではありません。要は、依存場所が増えるということなんですが。何かの本で読んで、その通りだなと思った文章があって、「自立するとは、依存場所を増やすこと」と書かれていました。僕は、この言葉を離島留学を通して実感しています。

親元離れてひとりになるから自立するのではなくて、今までの依存場所を離れて、新たな依存場所を増やしていく過程で自立するということ。「自立」と「孤立」は違うんですね。離島留学のおかげで、精神的にはちゃんと「自立」できたと思います。

この仲間たちの存在は一生の宝物です。


たくさんの人に支えられて

離島留学していると、大人の方と関わることがとても多かったです。これはやっぱり「地域みらい留学」の醍醐味なのではないでしょうか。

中学校までの大人の人との関わり方と何が違うのかというと、大人に何かを教えてもらうこととプラスして、大人の方と一緒に何か行動を起こす、ということが離島留学をしてから増えました。

例えば僕は高校三年生になってから同級生4名と地域おこし協力隊の方、Kさんとで「哲学カフェ」という対話を通して、生活している中で浮かぶ問いについて考えるというサークルを行っていました。もともとは高校生1名が進路についてKさんに相談していたところを、顔見知りだった他の3名も誘って、みんなで進路について考えよう、というのが始まりでした。最初のテーマは「大学ってなんのために行くの?」でした。それからだんだん大学以外のことも触れたりしながら、卒業ギリギリまで続きました。自分たちは高校生ながらもしっかり対話ができるようになったと思います。それができたのはやはり毎回ファシリテーターをしてくださったKさんのおかげでした。信頼できる大人の人と、高校生が本気でプロジェクトをやる。とても貴重かつ、楽しい経験ができました。

高三の最後の二月は、あるイベントを企画しました。メンバーは、哲学カフェメンバーと、島出身の後輩と、離島留学生の後輩。

イベントの内容は、京都芸術大学の副学長、本間正人先生を久米島にお呼びし、講演会を開き、中高生と一緒に「これからの時代(AI時代)、どのように学んでいけばいいのか」、「そもそも学ぶことの目的とはなんなのか」ということを考えるというものでした。

このイベントで本間先生が、強調して言っていたことがあります。それは、「学びを最終学歴で終わらせるのではなく、最新学歴を更新し続けるように学ぶことが大切」、「学びというのは、学校教育の中だけで終わるものではない。生涯学び続けることが人間はできる」ということでした。

加えて、A I時代の到来によって学び方も変わる。これから必要になってくる学びというのは、人間にしかできないことを身につける必要がある。大きくは、①人間関係、②感動から発見すること、③0から1を創ること、④主体的にチャレンジすること、の四つ。このように本間先生はおしゃっていました。

僕なりにこの四つを踏まえて、全てに共通する大切なことがあると考えました。それは、「自分の内、外を尊重すること」です。つまり、自分の内にある考えや、心を受け入れ、かつ、自分の存在の外、他者に対しても尊重すること。僕は、これは久米島で学ぶことができると思っています。

なぜ、「自分の内、外を尊重する」必要があるのか。

①に関しては、言うまでもなく、リスペクトがなくては良い人間関係は構築することはできません。

②については、やはり何かに感動するということは、対象を尊重しなくては本当に感動することはできないと思います。

僕は、映画が好きで、様々な映画を見てきましたが、一番感動した映画は「ニューシネマ・パラダイス」というイタリア映画です。当時、小学校六年生だった僕は、映画は大好きでも、映画で泣いたりはしたことがありませんでした。映画で泣くのがかっこ悪いとも思っていたぐらいです。ですが、この映画を見たときは違いました。この映画は、主人公トトの子供から大人になるまでを追って描いています。当時、小学校六年生だった僕は、映画にひきまれてトトとともに自分も成長している気分でした。完全に感情移入していた僕は、ラストシーンで思いっきり泣いてしました。そのときの感覚はずっと覚えています。身体中に鳥肌が立ち、心の底から「感動した、この映画はものすごい」そう思ったんです。なぜ、僕がこんなに感動したのかというと、トトに強く共感していたからです。共感というのは、相手を尊重していなくてはできません。僕は映画に対して自分なりにリスペクトをを持っているプライドがあります。映画というのは僕に知らない世界を教えてくれますし、なんと言ってもエネルギーを与えてくれます。だから、僕は映画を尊重しています。

人間が感動する時、やはり尊重する心は大切ではないでしょうか。

③、④については、これは「尊厳」が関わってくると考えています。ありのままの自分を尊重すること。

尊厳、辞書では、「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。」と定義されています。社会学者の宮台真司さんは、「幸せに生きるためには、「失敗しても大丈夫」感をいだける(尊厳)が必要だ」ということをおっしゃっています(宮台真司「14歳からの社会学」世界文化社、2009年)。

僕なりに「尊厳」という言葉を説明させていただくと、要は「あなたは、存在しているだけで価値があるんだよ」と思えることだと思います。ありのままでいいという感覚があるからこそ、チャレンジできるし、何かを創造する際のつまづきも、受け入れることができるのだと思います。

だから尊厳を感じられることって、とても大事だと思うんです。

僕は、これまでの学校教育を受けてきた中でずっと腹が立ってきたことがあります。それは、人間を測って競争させ、無理やり知識を定着させようとする教育体制です。そもそも人間を比べるなんてことはできないはずなんです。算数で、何かを比べる際に一番最初に習う概念は、「質的に同じものでなくては比べることはできない」ということです。果たして人間は質的に皆、同じでしょうか。

残念ながら、僕の通った高校でもまだ、優劣をつけることは必要だと考えられているように見られます。

このような学校システムの中で、どのようにしたら「自分は存在しているだけで価値がある」と思えるようになるのでしょうか。

僕の場合はそれを久米島で感じることができました。島の人たちは、どこの子どもかよくわからなくても優しくしてくれます。それは沖縄の文化なのかもしれません。ある時、友達について行って、よく知らない人の家で食事を食べさせてもらったりしたこともありました。

久米島には、「子どもはみんなで育てよう」という雰囲気があります。そのおかげで、自分をありのまま受け入れられるようになります。この環境で三年間過ごすことで、僕は「尊厳」を感じることができました。

島で過ごすことで、たくさんの人に支えてもらうことで、「尊厳」を感じ、恩返しではないですが、自分が尊重される経験から、文化が違う島を理解しようとし、「尊重する」心が生まれ、それによって自分が成長していることに気づき、また周りに感謝する。この尊重のサイクルが離島留学を通して、起こりました。

それによって「自分の世界の内、外を尊重すること」ができるようになりました。

改めて、久米島の環境には感謝しています。

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(本間先生の講演会の様子)

最後に

ここまで僕の記事を読んでいただきありがとうございます。

こうやって体験したことを文章にすることで、かなり濃い三年間を送ったことを再確認できました。

久米島にはとても素晴らしい学びの環境があります。今後、もっともっと久米島が良い島になることを願っています。

最後に、記事の話を振ってくださった久米島高校魅力化の岡本さん、企画をしてくださった地域教育魅力化の安井さん、ありがとうございました。

おわり

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◆◇地域みらい留学生/卒業生の贈る言葉◇◆
今年地域みらい留学の3年間を終えた卒業生有志による企画です。
「わたしの3年間」「高校生活の思い出」「地域みらい留学と私」など
それぞれの3年間を振り返り、それぞれの言葉を綴っていただきました。


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